琉球四柱推命 長峰鑑定所 勝星ブログVol.3

さて、皆さんはご自分の今の人生に満足していますか?私は満足しています!
「それはなぜか?」をゆっくりご説明します。

私ども琉球四柱推命の考え方で以下のやってはいけない事が三つあります。

  1. 他人を殴ること
  2. 他人を口撃すること
  3. 他人に念を飛ばすこと

ではなぜか?答えはシンプルです。
「全て自分に跳ね返ってくる」 からです。そしてカルマ噴出の時に自分自身にこの自分が他人にやったことが倍以上になり、継続して降りかかるのです。

琉球四柱推命の鑑定では、過去にやっただろう「お痛(おいた)」が分かる場合があります。
(私の言う「お痛」とはイタイ行為、他人を虐めたり戒めたり、殺めたりの意味です)

過去にやったことは自分が清算しなくてはいけません。
いま、あなた自身が「苦しい思い」をしているとすれば、過去性で自分がやっていたことが自分に降りかかっている場合が多いです。
もちろん、今世でやった「お痛」もブーメランで自分に戻ってきます。

お金で失敗した前世を持つ方も鑑定で分かります。今世で同じ事を繰り返せば来世はさらに苦しいものとなります。

過去はイバラの道だったけど、今は満足の人生の理由

さて、私は自分の人生に「満足している!」と声高々に冒頭で表現しましたが、26歳から46歳までは長い20年もの「不和周期」というイバラの道を歩んできました。本当に
『暗いトンネルのイバラの道を左右からボコボコに殴られる』
ような20年でした。

でも今となっては「ボコボコに殴って、虐めてくれた皆さん!ありがとう!」と笑顔で言えます。それは琉球四柱推命ではっきりとその意味が理解できたからです。

私の前世の魂は、前世のめぐまれた地位や立場では来世もしくは来来生での成長は無い事を予見し、あえて苦しく厳しい人生を選んだのです。

現世を良くするための第一の試練とは

第一の試練は、まず、選んだ両親は二人とも体が不自由でした。本当に小学生、中学生時代は両親のことで虐められました。苦しかったですねー。ホント社会に対して恨みの念を持ってました。あの頃の大人、特に年配者は両親を振り返ってまで「好機の目」で見る人が沢山いました。辛かったですね。

いまでも「障害者(しょうがいしゃ)」という言葉を口にする事はできません。苦しくなります。この世から消えて欲しい言葉ですね。
何かもう少し思いやりのある言葉に変えてくれたらと思います。
両親は親戚からも、お金でだまされたり差別される始末でした。

でも私は人の道を外れようとかは一度も思わなかったです。
「両親を守るのは自分しかいない。必ず見下した人たちを見返してやる!」 と奮起していました。でも家の中でも壁を蹴ったり殴ったりして暴れていました。もちろん
両親に暴力を振るうことは無かったですが、とにかく家では暴れていましたね。自分なりのガス抜きだったのかな。

高校時代は友人に恵まれました。またバイクの免許を取ってバイトで買ったバイクで夜な夜な友人たちとツーリングや集まってだべってました。
暴走族じゃないですよ。あの当時、第二次バイクブームですかね?
平成元年当時です。レーシングレプリカ全盛期で、バイク乗りは多かったです。よく事故にあわなかったなと思います(笑)。
バイクのおかげで気がまぎれました。

第二の試練、警察官になったこと

高校3年のとき、親友から「警察受けよう!」と誘われました。これが第二の試練の始まりでしたね。運よく合格しました。両親はとても喜んでました。これで親孝行できると確信しましたね。

障害を持つ親の「盾」になれる、両親を守れる!と思いました。強い人間になるぞ!と警察学校に入校しました。
学校生活はかなりきつかったですねー。毎朝6時起床で体操して「駆け足」というジョギングを隊列くんでやるという、起きた瞬間から訓練です(笑)。

でも今思うと警察学校の訓練は序の口でした。機動隊や刑事当直に比べれば。ええ、そうです。学校なんてレクの一つでしたね(笑)。
でも教官や同期生が素晴らしい人々でホントに救われました。「できらんぬー(出来が悪い)私を」を「少しできらんぬーの私」に成長させてくれました(笑)。

楽しかったのは機動隊勤務でしたね。訓練はホントきつかったけど、一度も辞めようとは思いませんでした。
でも、剣道の稽古は超ハードでした。特に梅雨時期の稽古は(笑)。
防具が「ぬるっ」として気持ち悪いんですよ。
毎日同じ面や小手で「ぬるっ」として稽古始めはホント気持ち悪い。ほんで汗で温度が上がるとなんとか「ぬるっ」が解消するんです。

あと、滝のように汗をかくため「塩をなめないと」ということで塩盛をカップに入れて、稽古の途中で隊員は皆その塩盛から指に着けて舐めていたんですが、この塩盛に夜中はゴキブリがたかっていたらしいんです(笑)。

まさにゴキブリと同棲していた稽古生活。もちろん塩盛は撤去されました。ゴキブリと同棲しても生きていけるんですね。誰も病院運ばれる人はいませんでしたw。
真夏、道場は二階なんですけど何度も
「今、窓から飛び降りたら稽古から解放されるな。中隊長の車の屋根に落ちればいいや。死にはしないだろう」 とは何度も思いました(笑)。

血尿を経験したのも、この頃です。稽古の途中でトイレに行き「わー、コーラのオシッコだー」とつぶやいたのを覚えています。
結局、生命力は強かったでです。しかし、本当のキツさはこれからでした。

皆さんは警察の本当の大変さを知っていますか?
ほとんどの方は知らないと思います。一番警察業務で大変なのは「変死体」の取り扱いです。

病院のベッドで亡くなる方以外は、警察で事件に関係するか調査しないといけないんです。
これが本当にキツイ。時間も9時間くらい普通にかかるし、ご遺体が腐乱している場合が多いです。
夏に腐乱したご遺体が安置された部屋に入った時、匂いで目の前が歪みました。

いったい一年で何件くらい警察は変死体の取り扱いをすると思いますか?
県全体で1000体はくだりませんよ。検案、検視、解剖を扱うのは刑事課の役目なんです。
刑事の後ろには誰もいません。誰も代わりをする人がいないんです。まさに背を崖に向けながら慎重にやる仕事なんです。他人の死後を扱うわけですから。

あと、とにかく休みがない。今は知りませんが当時36時間勤務(笑)して帰宅。
ビール飲んで就寝のため電気を消した5分後に電話が鳴り
「〇〇署当直の誰々です。強盗が発生しました。招集です」と。

「あ、ハイ」と切ったものの夢かと思い署に電話を掛け直すなんてことはざらでした。
妻にはホント難儀してもらいました。署に送ってもらったり迎えにきてもらったりと。
長女が生まれた後、妻は二回流産を経験しています。苦労かけました。

そんな私の警察人生ですが、前世は深い森のお寺の住職の私がなぜ警察官になったのか?
間違いなく「強く」なるためですね。心身ともに。 私がお世話になった警察の上司、同僚、後輩にはホント感謝しています。今でも私は沖縄県警の私設応援団として心をよせています。(あちらは迷惑かも(笑))

第三の試練、米軍基地従業員になったこと

さて第三の試練、米軍基地従業員(軍雇用員・略してグンコ)はどうだったかというと、
これまでの人生で、これからの人生でも一番恐ろしく、大変な目に合いました。
まさに生か死か、いつも崖っぷちをなんとかキリキリ言わせながらハンドルを切る17年間でした。

警察官を辞めるいきさつなど、続きは次回で! 最後までお読みいただきありがとうございました!

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